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コラム「夢を抱いて」

持続可能な福祉社会の実現

2022年9月

ライフサポート協会 理事長 村田 進

 今年6月、南海和歌山市駅のほど近くに「有吉佐和子記念館」が開館しました。

 和歌山生まれの小説家の有吉さんが、長年住んでいた東京の杉並区にあった自宅を復元したもので、「非色」「複合汚染」など、多くの社会問題を取り上げた作品を執筆した書斎や茶室も再現されています。

 彼女の作品の中でも、1972年に発表された「恍惚(こうこつ)の人」は、認知症の高齢者とそれを支える家族の問題を取り上げています。失禁、徘徊を繰り返す義父の介護は、働きながら家事一切を担ってきた妻の肩にかかってきます。貧弱な福祉制度しかない中で、家族関係が壊れそうな状態でも必死になって介護に取り組む家族の姿が描かれ、社会に大きな反響を及ぼしました。

 1963年に制定された老人福祉法は、身寄りがなく、経済力のない高齢者を保護するための措置施設として、「養護老人ホーム」、「特別養護老人ホーム」、「軽費老人ホーム」などの設置を定めました。日本社会は高度経済成長に突入し、政府も老人福祉サービスの整備・拡充に力を入れ、ついには、1972年の老人福祉法改正で、70歳以上の老人医療の無料化を決定するまでになりました。

 ただし、福祉サービスの拡充といっても、絶対量は少なく、低所得者を中心とする措置事業のため、多くのサラリーマン家庭は対象とならず、家族による介護は限界に直面していました。1973年の老人医療無料化施行を契機に、全国で家族介護の受け皿として「老人病院」が急増します。「1カ月3万円で完全看護」との宣伝の裏で、「寝かせきり」「点滴・検査漬け」が常態化し、平均87日での退院のほとんどが死亡退院でした。「現代の姥捨て山」といわれた老人病院に入院させざるをえなかった家族の多くが、罪の意識にさいなまれる日々でした。

 1973年、田中内閣が「福祉元年」を掲げ、老人医療無料化が施行されたまさにその秋、第1次オイルショックが日本を襲い、高度経済成長は終焉を迎えます。

 厳しい財政状況をふまえて、政府は老人福祉事業抑制へかじを切るために「伝統的な社会観」を持ち出します。福田内閣の厚生白書(1978年)には「同居は福祉の含み資産」として家族介護の重要性を強調しました。1979年、大平内閣は「新経済社会7か年計画」を閣議決定し、「日本型福祉社会構想」を打ち出します。それは、①日本の福祉水準は西欧諸国並み、②福祉は家族愛を奪い、老人自殺が増える、③福祉に力を入れると経済が傾く等、の内容で、公的福祉を抑制し、日本の伝統としての家族・地域の支え合いを求めるものでした。それは、当時、社会進出を始めた多くの女性たちを再び家庭に縛り付け、家事と介護を押し付けることを意味しました。

 これに対し、家族介護への押し付けではなく、社会的介護を求める女性を中心とした運動が全国的な盛り上がりを見せていきます。1980年に「呆け老人を抱える家族の会」が結成され、2年後の「女性の自立と老い」を考えるシンポジウムを経て、1983年には「高齢社会をよくする女性の会」が発足します。この国民的運動が大きな推進力となって1997年の介護保険法制定へとつながっていきます。

財源の確保と人権の保障

介護保険法に至る高齢者福祉のめぐる攻防は、「福祉財源の確保」と「人権の保障」という福祉をめぐる大きな二つの課題に関わるものでした。

 国の税収確保策として政府は間接税の導入に全力を上げようとしますが、大平内閣の「一般消費税」、中曽根内閣の「売上税」等の構想は国民の批判を浴びて次々と挫折していきます。1988年、竹下首相は消費税法導入実現と引き換えに政権を手放します。翌1989年、海部内閣は消費税(3%)の財源の大義名分に「高齢者保健福祉推進10か年戦略」(ゴールドプラン)を打ち出し、「ホームヘルパー10万人計画」などの福祉サービス拡充を持ち出します。一方、1994年、村山連立内閣に対して社会保障審議会は社会保険を活用した「公的介護保険の導入」を提言しています。その後、橋本内閣は1997年、介護保険法を制定しますが、同時に消費税を5%に引き上げ、税収を社会保障に使うとしています。社会保険という強力な財源を確保した介護保険制度は、その後、急速に事業を拡大させ、介護サービス給付費の総額は、2000年からの21年で、3倍の10兆3千億円にのぼっています。

 一方、介護保険制度に至る国民運動の背景には、国連を中心とした人権保障に向けた具体的な取り組みがありました。国連は1975年を国際婦人年と位置付け、第1回世界女性会議が開催され、各国の法律、経済、 政治、社会、文化制度における女性の地位向上のための「世界行動計画」が採択されています。また、同年12月には「障害者の権利宣言」が国連総会で採択され、「障害者が最大限に多様な活動分野においてその能力を発揮し得るよう援助し、また可能な限り彼らの通常の生活への統合を促進する必要性」を確認し、その上で、1981年を国際障障害者年と位置づけ、各国に障害者の人権保障に向けた具体的な行動を求めました。

 これらの国際的な人権保障の潮流から後押しを受けながら、日本国内での様々な当事者団体、医療福祉の専門家達の活動が重ねられていく中で、福祉を「措置」から「人権」に、本人の自立を支援する制度への転換が求められるようになっていきます。社会福祉基礎構造改革とそれに続く社会福祉法制定(2000年)は、日本の福祉を「人権としての福祉」に大きく転換させるものでした。

制度の持続可能性をどう実現するか

 超高齢社会に突入した日本の福祉ニーズはますます増大していくことが予想され、介護保険制度の「持続可能性」の論議が進んでいます。保険財源の限界から、単純に軽度者へのサービス制限や利用者負担の増額などの話が出ていますが、制限を受ける高齢者の生活の維持が守られるのか、事は簡単ではありません。

 一方で、この間の政府での議論では、福祉は「全世代型福祉」や「地域共生社会の実現」などが目標とされ、縦割り制度の非効率性や専門職だけの支援の限界から、地域福祉を推進し、住民をはじめ様々な関係者の連携が重要とされています。

 「自助」を強調し、競争のおこぼれを福祉に回すという遅れた福祉観に未来はありません。どんな人でも社会の中で役割を持ち、互いに支え合う社会を実現できるために、社会の資源を大胆に振り向ける時が来ているという時代認識が必要です。

 子ども若者から高齢者まで、全ての人々の人生を支え、豊かなものにするという、日本社会再生のカギを福祉が握っているという自覚が、我々には求められています。